古来、琉球の神話のなかで「うふあがり(=はるか東)」にあると伝えられてきた大東諸島(北大東島、南大東島、沖大東島)。その存在がわかってからも、断崖絶壁に囲まれた地形ゆえに長らく人を寄せつけず、明治時代後半になってからようやく開拓が行われた歴史の浅い島々だ。毎年、日本で最初の台風の通り道としてその名を耳にすることはあっても、110余年の開拓の歩みがどのようなものだったのかを知る人は案外、少ないのではないだろうか。『島へ。』2021年2月号ではそんな大東諸島のひとつ、北大東島を特集。数多くの島民たちへの取材を通して、つぎの100年に向けた新産業創出の動きをレポートした。ここでは、その一部をお届けしたい。
沖縄本島の東約360㌔㍍に位置し、沖縄でもっともはやく朝日が昇る島。南約10㌔㍍を隔てて兄弟島の南大東島(南大東村)が、南約160㌔㍍には沖大東島(北大東村)がある。
[データ]総面積 11.94平方㌔㍍/周囲13.52㌔㍍/最高標高 海抜74 ㍍(黄金山)/年平均気温 摂氏23℃(7月平均28.3℃、1月平均16.9℃)/年降水量 1742㍉㍍/人口567人(2020年11月末現在)
[アクセス]空路:那覇空港から琉球エアコミューター(RAC)の航空機(定員50人)にて毎日1便往復(南大東空港経由の場合もあり) 海路:那覇市泊港から貨客船「だいとう」(大東海運㈱)で約15時間、5日に1便ほど

4800万年前に生まれた
周囲13.5㌔㍍の小さな島の「驚異の大自然」

大東諸島は沖縄県に属するが、九州南端から台湾へと連なる琉球弧(琉球列島)とは生い立ちが異なる。その起源は約4800万年前、現在のニューギニア諸島付近で誕生し、隆起した海嶺が分厚いサンゴ礁で覆われ、フィリピン海プレートに乗って北上をつづけながらさらに隆起して南北大東島に分かれたといわれている。そして今もなお、年間約5㌢㍍沖縄本島の方角へと移動しているそうだ。太平洋上で激しい波風にさらされつづけ、サンゴ礁由来の石灰岩の断崖絶壁に囲まれた両島は人間の上陸を拒み、長らく無人島だった。八丈島出身の実業家、玉置半右衛門の開拓団が南大東島に上陸したのはようやく1900年のことだ。その後、1903年に北大東島に渡った彼らはこの島に上質な燐鉱石が豊富に眠っていることを発見、数年後には採掘が開始され、八丈島と沖縄本島や離島各地から労働者が大勢集まって島は栄えた。後に製糖業も活況を呈し発展していくが、そのあたりの歩みは本誌特集をご覧いただくことにして、ここではこの島ならではの特異な自然環境に注目したい。
何より長らく外界と隔絶されてきたため、この島には動植物の固有種が数多く生息している。ビロウ原生林で暮らすダイトウオオコウモリはその代表格だ。地形でいえば、通称「幕(ハグ)」と呼ばれる隆起サンゴ環礁帯が島中央部を取り囲んで盆地を形成しているのもユニーク。とくに幕の南側は長幕(ナガマク)と呼ばれる屏風状の絶壁となっており、自然植生が豊かなことから国の特別天然記念物に指定されている。
地質もかなり変わっている。全島が「ドロマイト※」で覆われており、これほどの規模は世界で唯一だそうだ。もちろん、古くから地質学の領域で注目を集め、昭和初期には東北大学が当時の最先端技術でボーリング調査を実施。このときに得られた資料に基づく研究は今もつづいている。
気候は沖縄地方のほかの島々と同様、亜熱帯海洋性気候に属し、年間を通して暖かいが、台風到来時にかぎらず年平均風速約5㍍/秒と風が非常に強く、冬は北東季節風、夏は南東季節風が吹きつける。そのため島内には北・南・西側にそれぞれ港があり、そのときどきの状況に応じて波風の影響の少ないところを利用できるようになっている。
ただ、港といってもいずれも岩盤を削って整地しただけのシンプルなもので、波風が強く船が接岸できるようにはなっていないため、荷下ろし、荷積みはその都度クレーンで行わざるを得ない。こうした過酷な自然環境の下、この島の人々は独自の工夫と努力で日々の暮らしを営んでいるのだ。

※ドロマイト……通常の石灰岩より硬い鉱物、マグネシウムとカルシウムが1:1の割合で含有されている。
写真奥に見えるのが島南部約1.5㌔㍍にわたって内陸部を囲むように連なる屏風状の絶壁「長幕」。かつてのサンゴ環礁帯の痕跡
島中央部の中野ビロウ林。かつて北大東島はこのビロウの樹々に一面覆われていたという。大部分は開拓で切り拓かれなくなってしまったが、一部残ったものを村の天然記念物として保護している。ダイトウオオコウモリの棲み処になっている
西港からの景観。周囲が断崖絶壁で覆われているため、北大東島には沖縄らしい砂浜のビーチが1カ所もない
海べりの石灰岩がどこもかしこもギザギザにとがっている様が、激しい波風をよく物語っている
西港での荷下ろしの様子。近海は風と波が非常に強いため、接岸させると船が岸壁に叩きつけられてしまう。そこでこの島では昔から、船を埠頭から少しはなれた海上に停泊させ、荷物だけでなく人も車もクレーンで吊り上げて運ぶ方法をとっている

燐鉱史跡の整備で産業観光を立ち上げる

そんな北大東島で現在、もっとも就業人口が多い産業は建設業であり、来島者の8割以上が公共工事などのビジネス客となっている。人の営みの歴史が浅く、インフラ整備や土地改良などの事業が本土やほかの離島より遅れてはじまったため、観光に手が回らなかったのだ。が、今では島の農地の土地改良は9割がた完了し、地域のあらたな収益の柱と雇用の受け皿として「本格的に観光業を立ち上げよう」という機運が高まりつつある。
数ある潜在的な観光資源のなかで、今もっともアツい視線が注がれているのが燐鉱関連史跡だ。北大東島の燐鉱は東洋製糖(後に大日本製糖)という企業によって1918年から戦後の50年まで採掘されてきた。北大東村教育委員会係長の浅沼拓道さんによれば「閉山後、燐鉱施設と社宅街の一部は住居や民宿に活用されてきたが、大半は時の経過とともに失われたり、損壊し廃墟となったりしてしまっている」という。だが、現存する建物や街並みはいずれも燐鉱採掘で発展したこの島の歴史を伝える貴重な文化財である。だから「先人たちの苦労をシッカリと記録し、つぎの世代に伝えねばならない」―。こうした考えの下、村は島の整備計画のひとつとして2013年から燐鉱史跡整備計画をスタート。15年4月には景観条例・景観計画を施行し、開拓の歴史を物語る文化財や燐鉱採掘の遺構群が数多く残る港地区(島北西部)を重要景観地区として位置づけた。
これらの史跡には産業遺構としてどのような特徴と魅力があるのだろうか。そのあたりを知るため、文化財の修繕や保全・管理、活用に向けた専門家アドバイザーとして島に赴任した北大東村教育委員会の根木智宏さんに現地を案内してもらった。まず訪れたのは、国の文化財として登録されている史跡のなかでも一番の目玉スポットである燐鉱石貯蔵庫跡だ。西港のほど近く、波に荒々しく削られた石灰岩に囲まれて佇むその姿はさながら要塞、石積みとコンクリートで固められた堅牢な建物だが、長年の風雨にさらされいたる処が損壊、風化している。いかにもこの島ならではだ。厳しい自然環境を物語っており、思わず圧倒されてしまう。

波に荒々しく削られた石灰岩に囲まれて佇む燐鉱石貯蔵庫跡
2018年10月の台風被害で石積みが大きく崩れてしまったため、目下、復元整備中
内陸から見た貯蔵庫。手前にあるのは燐鉱石をトロッコで運ぶためのトンネル
トンネル内部の様子

それにしても「燐鉱石を運び出しやすい海際に貯蔵庫を建てるには、激しい波風に耐え得るコンクリートが大量に必要だったはず」と根木さん。「当時としては高価な資材を大量にこの絶海の孤島に集められたことには驚くほかない」と話す。しかも貯蔵庫のすぐそばには燐鉱石を火力で乾燥させる「ドライヤー」という施設があり、専用の火力発電所まで備えていたという。

貯蔵庫のすぐそばにあるレンガ造りの「ドライヤー」。かつては丸く穴があいているところから貯蔵庫に大きな管が伸び、そこから熱風を送り込んで燐鉱石を乾燥させたという
ドライヤーの前の地面に埋まっているレンガ。ドライヤーのボイラーで使うエネルギーをつくりだす発電所の跡だという

こうした史跡を見ただけでも、かつて北大東島の燐鉱事業が一大産業として発展し、莫大な富をもたらしたことがハッキリとわかる。
そして、これら海際にある建造物から少し内陸に入ったところには港地区の集落が広がっており、そこかしこに燐鉱事業に関連する数々の産業遺構が点在している。共同浴場跡や東洋製糖社員の福利厚生施設であった弐六荘、社員住宅など、いずれも「燐鉱採掘のために島にやってきた人たちの当時の暮らしを今に伝える痕跡」である。そして、この集落から島でもっとも標高が高い黄こ がねやま金山に向かってすすむと、かつての燐鉱採掘の現場跡が深い緑の森に覆われている。

港地区の集落で現在も使われている長屋。 かつては燐鉱事業を手掛ける東洋製糖の従業員が 暮らす鉱夫長屋だった
かつて福利厚生施設だった弐六荘。大阪から移築したもので、寄 棟造りの立派な建物が目を引く。現在は民宿「二六 荘」として活用されているほか、重要文化財にも指 定されている
共同浴場跡地
島の人たちに史跡の価値や整備計画の意義などを伝える活動にも尽力している北大東村教育委員会の浅沼さん(左)と文化財担当の根木さん。根木さんは岡山県での埋蔵文化財の発掘事業のほか、外務省のプロジェクトでパナマやウズベキスタンでの世界遺産の保全指導にも携わってきたという

整備はまだまだこれからだが、この島の産業遺構としての特徴は何より「燐鉱の生産から運搬、保管、船への積み出しに至るまで一連の流れがすべて史跡として残っている」ことだ。これは全国的に見ても非常にめずらしいケースであり、「この特徴を生かせば、ほかの地域にはない魅力的な産業観光が確立できるはず」と根木さん。目下、村の燐鉱山遺跡整備委員会では21年より10年がかりの整備基本計画をすすめており、「個々の建物の整備のみならず、採掘現場から貯蔵庫へのトロッコ道に沿って遊歩道を配するなど、かつての燐鉱事業の様子を具体的にイメージできるような仕掛けや趣向を検討している」という。

史跡整備後のイメージ。一つひとつの史跡を復元・整備するだけでなく、かつての採掘場やトロッコ道のルートなども再現し、産業観光の確立を目指す

こうした整備計画と同時に、観光客が島内でどのような手段で移動し、これらの史跡にどうアクセスするかといった観光の動線を考えていくことも重要だ。この点に関しては一般社団法人北大東島振興機構がサイクリングツアーを検討中。「北大東島は周囲約13・5㌔㍍の小さな島で起伏も比較的少ないので、島内に点在する観光スポットを巡るには自転車がちょうどいい」と同機構事務局長の葉棚清朗さんは話す。「とくに燐鉱関連史跡が集積した島西側はやや高く盛り上がっており、ゴツゴツした石灰岩の向こうに広大な太平洋を眺め下すようにしてサイクリングができる」という。PRのための動画撮影や電動アシスト自転車の配備などもすすめているそうなので、今後の展開が楽しみだ。

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ここで取り上げたあらたな産業観光の他にも、この島では今、つぎの100年を見据えた産業創出の動きが活発化している。数々の条件不利を乗り越えて活気づく水産業、島産ジャガイモの本格焼酎「ぽてちゅう」をはじめとした数々の特産品開発プロジェクト、農福連携、アワビやヒラメの陸上養殖など、『島へ。』2月号特集ではさまざまな形で北大東島のフロンティアスピリットに満ちた「島おこし」をレポートしているので、ぜひご一読いただきたい。

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